会長・社長・専務と3人でドラッカーを学びミッションを共有して販売促進業に邁進する〜(株)アイム代表取締役社長 山谷満紀夫さん


(株)アイム 代表取締役社長  山谷満紀夫さん

(株)アイム

代表取締役社長 名刺アドバイザー

山谷満紀夫(やまや・みきお)さん

 

1977(昭和52)年、札幌市生まれ。

日本プリンティングアカデミー卒、

ドイツ留学を経て(株)三協入社。

2007年(株)アイム入社、2015年に代表取締役に就任。

 

 

印刷の基礎をしっかり学び、2代目経営者へ

 

―印刷の専門学校を卒業?

山谷 国内で唯一の印刷専門学校を出ました。東京です。3年制ですが、わたしはもう1年、研究生として残って学びました。実は、大学受験に失敗したからなんです(笑)。浪人して迎えたセンター試験の1日目。できがあまりにも悪くて2日目は行かないという苦い経験をしたのです。「この先どうしたらいいのか」と途方に暮れていた時に、知り合いからおしえてもらったのがこの専門学校だったのです。

 

―どのような学生でしたか?

山谷 学生の9割ほどが印刷会社の息子らが学ぶ学校でした。わたしを含めて皆まじめな学生でした。実際の仕事を通じて印刷を学ぶという方針でした。2年目からは午前中は座学。午後からは校内にある機械をつかって実際の印刷工程をこなしていました。

刷物としては、商品パッケージや情報紙などを納品していました。卒論では、メーカーごとに異なる印刷データを互換性あるものにするにはどうしたらいいか、といったことを研究していました。

 

―その後、印刷の本場ドイツへ留学?

山谷 卒論で研究していた対象がドイツのソフトウェア会社だったからです。この会社に入って研究をつづけようと思いました。でも、言葉がまったくわからない。なので最初の5ヶ月間は語学学校に入ってドイツ語を学ぶところからのスタートしました。

さらにもう1年半、シュトゥットガルト印刷情報大学が現地にありまして、交換留学の制度をつかって座学や実務を学びました。

2年半のドイツ留学を終え、日本に帰国。ハローワークに行って見つけた東京の(株)三協という印刷会社に就職しました。この会社には3年間お世話になりました。主に営業担当。大手企業をルートで回って伝票とか封筒とかを受注して納品していました。

 

 

―親が経営する会社へはいつ入社?

山谷 父親が倒れたということがあり2007年、28歳の時、札幌に戻り親が経営する製版会社に入社しました。最初は現場を知るということで、スキャナーを回したり印刷の前行程である製版の現場仕事をしたりしていました。「ずいぶん古い機械を使っているな」と思ったものです。ちょうどそのころ、次の時代の展開を模索していた時。企画とか制作とか川上の方へ移行したいという会社の思いがあり、その分野を拡大したいと動いていました。

 

―入社に際して迷いはなかったですか?

山谷 子どものころから、なんか知らないうちに父親から洗脳教育を受けていた感じだったんです(笑)。物心ついた時から「(会社は)おまえが継ぐんだ」と言われていた気がしています。ほかの選択肢を考えることもなかったほど。

小学生のころ、日曜日とか遊びに行くところが会社(作業場)でした。子どもにもできるフィルム作業を手伝っておこづかいをもらっていました。そんなこともあり、入社に関して迷いなどは一切なかったですね。

 

―現在は社長ですね?

山谷 2015年、社長になりました。制作会社としての現・アイム社に一本化して行こうというタイミングでした。長男だということで、いきなり社長になって。でも、まったく社長業はできていませんね(笑)。特に銀行とのやりとりには気をつかいます。社内的にはわたしが一番年下ということもあり、母である会長や姉である専務から取締られています。

姉はわたしの右腕というか、ステッキ持ってわたしの尻を叩く役割りです(笑)。基本的に姉の方が勉強も仕事も優秀なんです。家族経営なのでやりづらい部分もありますが、向いている方向を共有しているので楽です。3人でドラッカーを学びつづけているからかも知れません。常に原理原則に当てはめて考えているからでしょうか。

 

 

ドラッカーを学び、業態を転換する

 

―ドラッカーを知ったきっかけは?

山谷 札幌に帰ってきた28歳の時です。最初はナレッジプラザ主催の「札幌ビジネス塾」でした。佐藤等公認会計事務所さんとは先代からの長いおつきあい。「ぜひ参加したらいいよ」と。ドラッカーのマネジメントを中心とした話は目からウロコ。塾長である佐藤等さんの解説がものすごくわかりやすかったのです。ドラッカーをまったく知らないわたしにも、すっと入ってきた。原理原則が大事だということ、イノベーションを起こしていくことが大事だと。事業転換を推し進めていく真っ最中だったこともあり、勇気をもらっていました。

 

―好きな本はなんですか?

山谷 『非営利組織の経営』です。なんでお金をもらわない組織なのに人は働けるのか、と。人はお金で動くものではないんだということに驚いた一冊です。仕事に一番役立っている本は『経営者の条件』でしょうか。常に読み返しています。「やるべきことが書いてある本」という印象です。時間を管理するなど、習慣的なことを身につければ、誰もが成果をあげられると書いてあるからです。

 

―ファシリテーターにはどうして?

山谷 時間管理など自分なりに結構取り組んでいたのですが、最近やっていないなと。そこで、実践するマネジメント読書会の「ファシリテーター養成講座」に申し込みしました。2019年の秋です。参加者には市役所公務員や大企業の社員、経営者など、さまざまな立場の人がいることに驚きました。

 

―個人の強みはどんなこと?

山谷 わたし個人としての強みはアイデアを生み出すこと。キャッチコピーやタグラインといったものを開発する発想力でしょうか。学ぶことは好きです。知らないことがわかる、社会に役立つことを知るは楽しい。でも学びばっかりで、もっと成果を出さねば、ですけれど(笑)。

 

 

―会社として大きな廃棄も?

山谷 はい。印刷機械を捨てました。減価償却が終わり、さあこれから稼ぐよというタイミングだったのですが、スペック的にも古くなってしまっていたからです。機械は廃棄して印刷業務は外注することにしたのです。このことによって企画・制作といったクリエイティブ業務に集中できる環境になりました。

 

―もうひとつの武器も?

山谷 2008年ごろ、ドラッカーを学びはじめたころに重なりますが、体験をキーワードに安売りすることなく、価値を売ることをメインした「エクスペリエンス・マーケティング」(エクスマ)という考え方を知りました。マーケティングコンサルタントである藤村正宏さんが主宰する塾に入り年4回、東京での勉強会に参加したのです。

この学びがなければ、今、当社はないかもしれないほどです。ウチの会社を知ってもらう、問い合わせをいただく切り口になっていると思います。決して安くはない投資額でしたが、充分元はとれています。ドラッカーで原理原則を身につけ、エクスマで実際にお客様に役立てるという感じです。

 

―中期的な展望をおしえてください

山谷 以前は販売促進の講師をやってセミナーで見込客を集客してと、やっていたのですが、なんか自分の中では違うのかなと。今は相手の会社に行って相談に乗るというスタイルが合っているような気がしています。クライアント企業が困った時に相談してくれる。そういう会社になりたいと思っています。

当社は「お客さまのファンづくり」がミッションです。このファンづくりのために自分たちは何ができるのか。その目的のために、チラシの使い方を変えるアドバイスを行う。具体的には、価格訴求型から物語を伝えるストーリー型にするといったことです。名刺やニュースレター・リーフレットも同じです。

相手にとって何が一番大事なのかを聞いて提案することがわたしたちの仕事。その人がやりたいことをカタチにして想いを届けることを、もっと多くの人や企業に対してできたらと思っています。

 

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花岡 俊吾
アウトドアライター/記事制作者   1965(昭和40)年、北海道恵庭市生まれ。高崎経済大学卒業、(株)ピーアールセンターにて広告・マーケティング業務に従事。2007年独立、「北海道体験.com」のプロジェクトに参画。人口減少の道内経済に貢献すべく、北海道の新しい体験観光情報の発信をライフワークにする。カメラを片手に、年間100日以上をアウトドアフィールドやキャンプ場の取材活動。新聞記事連載やWEBコンテンツ制作がメインの仕事。P.F.ドラッカーの読書会、札幌ビジネス塾に10年以上通い、上田惇生先生のサイン入り『経営者の条件』は家宝。著書に『アウトドア&感動体験ガイド北海道』(北海道新聞社)。休日はマラソンと登山に勤しむ。

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