人生100年時代の先人:絵で見るドラッカーの人生【1927年】(1909〜2005年)


絵で見るドラッカーの人生【1927年】

青年ドラッカーは、ウィーンが過去の奴隷と化していたことに嫌気がさしていた。加えて、ギムナジウムの高学年になってからは、「生きた経験」を求めて、イギリスかドイツの会社へ就職を考えるようになる。ギムナジウムの教師との話し合いでも、もうこれ以上学校に行く必要のないことは確認済みだった。こうして旧陋な閉鎖社会から飛び出るように、現実の社会を志向した。

ハンブルグ(社会人としての第一歩)

ウィーンから出たドラッカーは、ドイツのハンブルグ木綿商社で社会人としての第一歩をスタートさせた。おそらく貿易商の高官だった父の斡旋によるものだったろう。

当時ドラッカーは昼間は商社に勤務し、夜には図書館で読書という生活を反復していた。いわば版でついたように同じ生活をしていた。

しかし、そのために一年半という短い期間ながら、ドラッカーにとってのハンブルグ時代は、いくつかの重要な思想上の出会いと深化、そして呼吸の時代となった。

人生を変えた名著(テニスとバーグ)

このハンブルグ時代に、ドラッカーには二つの名著との運命的な出会いがあった。一つは社会学の鼻祖とされるテニス(ドイツの社会学者。社会における共同体と機能を提唱した。1855〜1936年)による1887年の名著『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』、今一つがエドマンド・バーグ(イギリスの政論家。1729〜1797年)による政治上の古典『フランス革命の省察』(バークによるフランス革命への批判書。1970年に出版された。保守主義の聖典とされる)だった。後に、18歳だった自らの「人生を変えた二冊の書物」として特筆している。

ドラッカーの社会論では、位置づけと役割を伴う社会と、個の成長条件が繰り返し問われる。18歳のときにテニスから教わったものだった。(中略)

ドラッカーもまた、企業を論じる際に、機能的な側面のみに目をとめることはしなかった。人間同士の関わり方、コミュニティの成熟度を判断基準に置いていた。戦後、日本企業を視野に収めたとき、そこにコミュニティと社会を一つのモデルに機能する産業社会では、個と組織の間にコミュニティによる絆が醸成されなければならないとした。それが後年まで変わることなく、ドラッカーのマネジメント論の基礎的な視座となった。

もう一人のバーグについては、政党保守主義者としてのドラッカーの精神的支柱を形成することになった。『ドラッカー入門 新版』より

※この情報は『ドラッカー入門 新版』のp.281~の「ドラッカー年譜」をもとに制作しています。より深い背景の理解には同書をお薦めします。

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五月女 圭司

『人生を変えるドラッカー』を読んで「人生は変えられるよ!」と、神さまの声が聞こえた気がした55歳の会社員。己と向きあうには師匠がいる。私の師匠はドラッカー教授の「ことば」(お逢いしたことはありませんが…)。個人も組織も「地域貢献」が人生のテーマ。私のミッションは「人」と「ドラッカー」と「音楽」をつないで笑顔が絶えない社会を創るために日々まい進すること。

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