絵で見るドラッカーの人生【1931年】
働きながら学ぶ
当時のドラッカーにとって、働きながら学ぶことは譲れない条件だった。そのような勉強のスタイルは、ドラッカーとゆかりのある人々にはなじみのものっだった。父アドルフ、高名な法学者で叔父のケルゼンも、ウィーン大学の兼業学生から身を起こしていた。
二人ともに高度な実務家でありながら、博士の学位を取得していた。学問と実務が両輪として機能するときに、人が学ぶ力を最大化させることを年若くしてドラッカーは知っていた。後年の思想を彩る知的スタイルはすでに確立されていた。
『博士号を取得』
研究分野によっては、ドイツの大学で博士号を取得するには、ドイツ国籍が必要だった。オーストリア国籍のドラッカーには、法学の最終試験に受験資格がなかった。そこでドイツ国籍を取得せずとも受講できる国際法をベースとする考察をもって博士論文をまとめ、政治学で学位を取得した。しばしドラッカーは法学で博士号を取得したとされているが、実際には政治学で博士号を取得している。
当時は指導教官制ではなかったため、ほぼ独力に近い形で論文を仕上げたが、論文指導を行なった教授はカール・ストラップ(国際学者。1886〜1940年)という学者だった。1931年、ドラッカーが22歳を目前とした頃だった。テーマは「準政府〈反乱者、亡命政府、独立近くの植民地〉の国際法上の地位」だった。
博士号取得後、フランクフルトでの員外講師を勧められた。員外講師とは今で言えば非常勤講師である。任命職ながら無給だった。
教授会の審査も通る見込みだったものの、ドラッカーには一つの懸念があった。公職たる員外講師に就任するならば、自動的にドイツ国籍が付与されることになっていた。ドラッカーはウィーン時代からヒトラーの『我が闘争』(ヒトラーの自伝と世界観からなる著作。1925年に一巻、26年に二巻が刊行された)を読み、総毛立つほどの不吉なリアリティを感じとっていた。
1931年当時、ナチスの権力拡張は日に日に現実のものとなっていた。もちろんドラッカーには、ナチスの市民になるつもりはなかった。『ドラッカー入門 新版』より
※この情報は『ドラッカー入門 新版』のp.281~の「ドラッカー年譜」をもとに制作しています。より深い背景の理解には同書をお薦めします。
五月女 圭司
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