人生100年時代の先人:絵で見るドラッカーの人生【1933年】(1909〜2005年)


絵で見るドラッカーの人生【1933年】

1931年当時、ドラッカーはジャーナリストとしても社会問題と格闘していた。1920年代のドイツの政治状況はナチズムの勃興期だった。禍々しく、血生臭い時代だった。

『試練の時代』

1932年、33年は、活発かつ旺盛な知的活動が身に迫る政治社会に向き合いはじめた年だった。同時に生涯の最も苦しい年月でもあった。新聞記者や員外講師として弱冠23歳にして社会的な地位を確立しようとしていたドラッカーは、新たな創作活動の必要を実感していた。

ナチスが230議席(得票率37.4%)を獲得し第一党に躍進したのが、1932年7月だった。ドラッカーがフランクフルトでの学究とジャーナリスト生活を送ったのはその前夜であり、すでにナチスを悪い酒落や冗談と受けとめる空気は消えつつあった。

新聞社の同僚にも、後に「怪物」と恐れられることになるナチス党員が在籍しており、いっそう深く彼らの正体を了解することになる。しかし、それ以前からドラッカーがナチスについて知っていた唯一の事実は、「彼らとは絶対にわかり合えない」ということだった。

後の1939年にアメリカで出版されることになる『「経済人」の終わり』の構想を開始したのが1933年、ヒトラーが政権を掌握する前後のフランクフルト時代の最後の日のことだった。

処女作を出版

それともう一つ、ドラッカーが最初に著した論説『シュタール論(フリードリヒ・ユリウス・シュタール 保守主義的国家とその歴史的展開)』があった。

一般的には1939年の『「経済人」の終わり』がドラッカーの処女作とされているが、厳密にはこの33頁の小著が最初に刊行された書物である。1933年チュービンゲンのモーア社から出版されたもので、第一次対戦とともに終焉したヨーロッパ的価値観と、新たな運命に翻弄される世界の現実に構成を与えようとした著作である。

目的は当時迎えつつあった政治社会の破局の原因を探るとともに、自らの政治的立場である保守主義を世に問うものだった。シュタール(プロシアの法学者、政治家。1802〜1861年)は19世紀に活躍したプロシアの保守政治家である。ドラッカーはドイツ政治史からシュタールを選び出し、そこに自らの政治的立場を仮託する形で論稿を仕上げた。

プロテスタントに改宗していたとはいえ、シュタールはユダヤ人だった。ユダヤ人の政治家を現代の範とする論説がナチスの気に入るはずはなく、ドラッカーが想像した通り、禁書とされ焚書の憂き目に遭う。

しかし、「シュタール論」で示された着眼は、後々までドラッカーの政治的主題の足場となった。正統保守主義がそれだった。保守主義は一つの政治的な立場だったが、同時に、観察者としてのドラッカーにとっての技量を研磨する足場として意味を持っていた。

1933年初めにドラッカーはフランクフルトを離れ、ロンドンに渡った。ドイツの1933年とは、ナチスが少数与党として右派連合政権を組閣し、政治権力を掌中に収めた年だった。ドラッカーがドイツを離れたのはナチスが政権を獲る1ヶ月弱前、まさに間一髪のタイミングだった。『ドラッカー入門 新版』より

※この情報は『ドラッカー入門 新版』のp.281~の「ドラッカー年譜」をもとに制作しています。より深い背景の理解には同書をお薦めします。

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五月女 圭司

『人生を変えるドラッカー』を読んで「人生は変えられるよ!」と、神さまの声が聞こえた気がした55歳の会社員。己と向きあうには師匠がいる。私の師匠はドラッカー教授の「ことば」(お逢いしたことはありませんが…)。個人も組織も「地域貢献」が人生のテーマ。私のミッションは「人」と「ドラッカー」と「音楽」をつないで笑顔が絶えない社会を創るために日々まい進すること。

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