人生100年時代の先人:絵で見るドラッカーの人生【1934年】(1909〜2005年)


絵で見るドラッカーの人生【1934年】

ドラッカーは1933年にフランクフルトを離れ、ロンドンに渡った。初め大手の証券会社で証券アナリストをつとめ、一年ほどしてから小さくはあったが、急成長していたある投資銀行に移った。そこでエコノミストとして、3人のシニアパートナーの補佐役を勤めた。ひとりは70代の創立者で、あとの2人は30代半ばだった。初めのころ、ドラッカーはいちばん若いシニアパートナーの補佐役の仕事をさせられた。

新しい仕事が要求するものを考える(シニアパートナーの教訓)

ところが3ヶ月ほどして、年配の創立者がドラッカーのを部屋に呼びつけて、こう言った。「君が入社してきたときはあまり評価していなかったし、今もそれは変わらない。しかし君は、思っていたよりも、はるかに駄目だ。あきれるほどだ」。2人のシニアパートナーに毎日のように褒められていたドラッカーは、あっけにとられた。

その人はこう言った。「保険会社の証券アナリストとしてよくやっていたことは聞いている。しかし、証券アナリストをやりたいのなら、そのまま保険会社にいればよかったではないか。今君は補佐役だ。ところが相も変わらず証券アナリストの仕事だ。今の仕事で成果をあげるには、いったい何をしなければならないと思っているのか」。ドラッカーは頭に血が上った。しかし、その人の言うことが正しいことは認めざるをえなかった。そこでドラッカーは、仕事の内容も、仕事の仕方も、すっかり変えた。

このとき以来、ドラッカーは新しい仕事を始めるたびに、「新しい仕事で成果をあげるには何をしなければならないか」を自問している。

『プロフェッショナルの条件』(2000年)より

日本との出会い

ドラッカーと日本との関わりが始まったのは、23歳のとき、1933年ロンドンのマーチャントバンクで働いていた頃のことだった。勤務先からの帰途、ロンドン名物のにわか雨に遭い、通り脇に雨宿りした。偶然にもピカデリーの一角バーリントン通りで、ロンドン最初の日本画展が開催されていた。

展示をめぐり歩くうちに、いつしか心はわしづかみにされたという。以来、ドラッカーは博物館や展示会に素早く通っては、いっそうの日本画展鑑賞に浸っていく。戦時中ワシントンにいたときにも、時間の許す限り日本語画の所蔵で有名なフリーアというギャラリーを訪れている。

『ドラッカー入門 新版』より

※この情報は『ドラッカー入門 新版』のp.281~の「ドラッカー年譜」をもとに制作しています。より深い背景の理解には同書をお薦めします。

 

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五月女 圭司

『人生を変えるドラッカー』を読んで「人生は変えられるよ!」と、神さまの声が聞こえた気がした55歳の会社員。己と向きあうには師匠がいる。私の師匠はドラッカー教授の「ことば」(お逢いしたことはありませんが…)。個人も組織も「地域貢献」が人生のテーマ。私のミッションは「人」と「ドラッカー」と「音楽」をつないで笑顔が絶えない社会を創るために日々まい進すること。

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