絵で見るドラッカーの人生【1971年】
日本画の授業
ドラッカーは62歳になる1971年、ニューヨークからロサンゼルス郊外の地方都市、クレアモントへ引っ越している。理由は2つあった。一つは気候だ。
「NYUで教えながらニューヨークには22年間連続で住んだけれども、東海岸の気候は好きになれなかった。特に寒さが厳しい冬はね。ある時、妻と一緒に冬の間の3ヶ月間だけクレアモントで過ごすことにした。南カリフォルニアの気候は穏やかで東海岸とはぜんぜん違う。夫婦そろってここを気に入ってしまった。」
もう一つはクレアモント大学だ。ドラッカーは同大学から「大学院にマネジメント科を創設するので協力してほしい」と誘われ、それを魅力に思ったのだ。「何か新しいことを始めるということは刺激的で、いつでも大歓迎だった」
私とのインタビューの中で、ドラッカーが最もうれしそうに反応したのが「クレアモントでは日本画について5年間教えたそうですね。楽しかったですか?」との質問を受けた時のことだ。すると大きな声で「トリメンダストリー!(ものすごくね!)」と返事し、10分間ほどノンストップで話し続けた。
日本画の授業で学生数は25人。といっても、このうち単位の取得を目的にする正規学生は半分に過ぎず、残りは単なる傍聴者だ。正規学生のほとんどが美術や東洋史を専攻する女子学生で、みんなが傍聴者としてボーイフレンドを連れてきていたからだ。
授業でドラッカーは唯一の教材として自分の日本画コレクションを使った。毎回、コレクションから数点選び出し、教室内に掲げる。学生はドラッカーと一緒に日本画を観察し、意見交換する。こんな形で毎回夜7時から10時まで授業が続いた。
ドラッカーは「授業では学生が絵画を観察し、学習することが最も重要。取り上げる絵画の作者や時代背景などについて私から話をすることはない。学生が自分で本を読めばそれで十分だから」と語る。ハンブルクの図書館で本を読みあさることで「大学教育」を受けたドラッカーらしい発言だ。
2回目の授業までは、ボーイフレンドの多くは嫌々ながら授業に加わり、退屈していたそうだ。多くは工学専攻の学生で、日本画とは全く縁がなかったことを考えれば無理もない。ところが、3回目の授業になると、ボーイフレンドも、どのように日本画を観察すればいいのか理解し、ドラッカーいわく、「目の色を変えて授業に参加するようになった」
田舎にある規模の小さい大学で自分の好きなテーマを選び、自由に教える。「ホーム(故郷)」と呼ぶバーモント州にあるベニトン大学での環境と同じだ。しかもクレアモントは気候がいい。クレアモント大学からの誘いをすぐに受け入れたのもうなずける。『ドラッカー20世紀を生きて(私の履歴書)』より
※この情報は『ドラッカー入門 新版』p.281~の「ドラッカー年譜」をもとに制作しています。より深い背景の理解には同書をお薦めします。
五月女 圭司
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