宝塚歌劇団とドラッカーと日本のこころ、本物から得た学びを企業や世界に伝えたい
元宝塚女優・講演家
堀内明日香(ほりうち・あすか)さん
1980年、札幌市生まれ。
宝塚音楽学校卒業後、宙組の娘役として活躍。
退団後は講演活動で全国を巡る。
宝塚歌劇団の経験を伝える
―どのような活動をしていますか?
現在、メインの活動は講演と「日本の理念と心」を学ぶ菅家廊下翔塾(かんけろうかしょうじゅく)の講師をさせていただいております。菅家廊下翔塾とは日本の源流と繋がることにより、戦後失われつつある日本の誇りを取り戻し、祖国への思いを新たにしていく学びの場です。講演のテーマは「宝塚歌劇団100年の歴史から学ぶ〜人が輝き組織が活きる・心と身体の磨き方」と「日本の理念と心」があります。人が組織で輝くにはどういう学びが大切なのか。ドラッカーの原理原則と宝塚での経験と日本の理念と心を組み合わせ、伝えております。
―宝塚での学びを活かして?
私が20代の頃に在籍していた宝塚歌劇団は今も伝統が受け継がれ組織が繁栄しています。その教育の源流にあるものは何かと、宝塚退団後、自分にずっと問いかけてきました。そして四年前・神道の「日本の理念と心」を学び「これだ!」と胸が高鳴る感動を覚えました。宝塚の創始者小林一三(こばやし・いちぞう)翁の理念は「清く正しく美しく」。宝塚は「型」を通して理念を行動の原理まで落とし込んでいるので、理念が浸透しています。そして組織として100年以上も続いているのは「日本の伝統と繋がり」を大切にしているから。更にその源流を辿っていくと「和の心」にあると直感しました。
日本古来の高貴な精神性をぬきにして、教育、組織の人材育成を説くことはできないと強く感じております。今まで日本はグローバルスタンダードの名の元に、欧米化を余儀なくされてきましたが、その価値観は現代においては大きく行き詰まりを招いている企業も多く、そのことは企業家やビジネスマン、組織で働く方々が一番肌身に感じていることだと思います。
―その想いは?
なぜ、今、この21世紀に「日本の理念と心」を学ぶことが重要なのか。それは発展の法則・進歩の法則・成長の法則は「繋がる」と言うことにあるからです。例えば、大木がすっくと厳しい自然の中に立つのは根っ子は土と繋がり、幹は根っ子と繋がり、枝は幹と繋がり、葉っぱは枝と繋がり、その繋がりの連続性で生命体が現れています。人間もいにしえより続く、伝統・文化・歴史・精神・先人達の血と汗と涙に繋がらないと本物の志は生まれないと感じます。日本とはどういう国なのか。いにしえより続く伝統、文化、歴史、精神、魂を忘れ、漂流し続ける現代の日本及び日本人。もう一度源流を見つめ直し、源流としっかり繋がる。国柄を再発見し、自信と誇りと感謝を取り戻す。
今月5月22日からはペリリュー島・アンガウル島へ中川大佐率いる日本軍・戦跡の鎮魂慰霊に参りました。先人達の血と涙と汗の歴史を知らなければ本物の社会貢献、企業経営、教育活動、国家運営はできないと考えているからです。過去、日本の為に亡くなった偉人達の心と姿を知ることにより日本に生まれてきた意義、生きていく意味がわかります。社会貢献のバックボーンも、企業経営のバックボーンも国家を経営する政治家たちのバックボーンもそこにあると感じます。先人達の熱き思い、そして祈りと繋がることにより志も大きく変わるはずです。
―講演はどのような人が対象?
企業や学校です。幼稚園児から大企業の社長さんまで。三菱系のある会社では国内の全拠点へ講演で行かせていただきました。依頼は、わたしの講演を聞いてくれた人や9割がリピーター。年間約100本。全国各地に加えて、メガバンクさんの主催でタイのバンコクでも講演しました。航空自衛隊や海上自衛隊もあります。
―生い立ちをおしえてください
1980(昭和55)年、札幌市生まれ。幼稚園の頃から毎年、宝塚歌劇の舞台を見ていました。祖父と母が宝塚ファンだったのです。祖父は「明日香、これは見ておいたほうがいいよ。日本で一番だから」と。歌劇団を目指そうと思ったのは小学5年の頃。「ああ、わたしはここに入るために生まれてきたのだ」と直感しました。私の魂がおしえてくれたような感覚でした。入学の難易度は、倍率でいうと最高で48倍。わたしの時は30倍近くでした。入学試験は歌と踊りと面接です。音楽学校は2年制。この2年間でタカラジェンヌとしての技能だけではなく、人として人間性を磨く教育がされています。
―音楽学校がすごい?
多くの規律や厳しい掟がある集団生活を過ごします。歌踊芝居といった芸術と、それ以外の生活をしっかりとやります。廊下や階段の角は、壁伝いに直角に曲がる。阪急電車には先輩が乗っているかもしれないので、一両ごとにお辞儀をする等々。あの厳しさを乗り越えられると、根性がつきます。そうすると人生においてどんな困難が来ても乗り越えられます。
音楽学校で2年間学び、歌劇団に入って初舞台を踏みます。わたしは音楽学校から数えて10年間在籍しました。「自分の中で限界まで精一杯までやった」と感じた29歳の時退団しました。宝塚歌劇は未婚の女性で形成されている劇団、どこかで卒業の時期がやってくるのです。
ドラッカーのことばを織り交ぜて
―講演活動へのきっかけは?
最初のきっかけは佐藤等公認会計士事務所の佐藤等先生です。ナレッジプラザの「ビジネス塾」で人生初の講演をさせていただきました。この講演をきっかけに日本全国に広がっていきました。ドラッカーも同じころです。佐藤先生から「講演活動には、ドラッカーを学んだほうがいいよ」と。それでドラッカーのキーワードを織り込みながら講演の構成をつくっていきました。最初に読んだ本は『経営者の条件』です。おもしろかったです。この本は本質のかたまりだなあと思いました。この本を読むと心が洗れましたし、原理原則なので、説得力があります。
―ドラッカーと小林一三の共通点?
ドラッカーの言葉に「事業は目的は顧客の創造」とあります。それを体現したのが宝塚歌劇団を創設し、阪急東宝グループを成す数多くの事業を興した小林一三です。一三はゼロから一を生み出し、新しい顧客をつくったのです。まさに女性が男性を演じる宝塚歌劇団、高校野球のアイデアを出したのも一三です。日本で初めてターミナルデパートというものをつくったのもそう。またドラッカーの『マネジメント』の中には、小林一三のことが書かれているのです。とてもうれしいですね。
―どのドラッカーの本が好きですか?
佐藤等先生の『実践するドラッカー』です。講演しているとドラッカーの原理原則は外せないと確信しています。佐藤先生の本には解説があるので非常にわかりやすいです。組織で働いている方々が活き活きと輝くためにはドラッカーは必須。どの企業様で講演していく中でも、ドラッカーを講話に取り入れると現場のみなさまへの説得力がちがいました。ドラッカーと宝塚歌劇団での経験と日本の理念と心は響く。10年近くやってきての実感です。ドラッカーがすごいのは、コンサルタントだけではなく。政治・経済・歴史・社会・教育・企業などの分野に加えて、芸術もわかる。こんなマルチに長けた人は世の中にいないのではないでしょうか。ドラッカーには見えないものが見えているんだと思います。五感を通り越して、それ以上の感覚があるからでしょうか。
―今後はどのようなことを?
これからは新しいことに挑戦していきたいです。先週、イスラエルに行ってきました。建国、国防のリアリティを教えてくれました。イスラエルは1948年に独立を果たします。それまで世界中のあちこちで流浪。1900年振りに自分たちの土地を作ることができたのは「繋がり」を大切にしていたからです。世界で一番古い国ユダヤ世界で一番古い歴史をもった皇室をいただいた日本。
国が繁栄するのは「繋がる」と言うことにありました。自国の歴史・精神・先人達の血と汗と涙に繋がらないと本物の志は生まれない。一度国を失ったユダヤの方々だからこそ伝わるものがあります。国があることの幸せと自分たちの国は自分達で守らなければならないことを。そして、イスラエルは世界で最先端技術を生み出す国へ発展して行きました。
我々も、過去、日本の為に亡くなった偉人達の心と姿を知ることにより日本に生まれてきた意義、生きていく意味がわかると思ったのです。社会貢献のバックボーンも、企業経営のバックボーンも国家を経営する政治家たちのバックボーンもそこにあると感じます。日本人も日本とはどういう国なのか。もう一度源流を見つめ直し、源流としっかり繋がる。国柄を再発見し、自信と誇りと感謝を取り戻すことが国の繁栄、国防意識を育てることへ繋がることを伝えて行きたいと思っています。
ーそしてパラオにも行かれた?
この度のパラオでは、中々足を踏み入れることのできないアンガウル島に慰霊できたのが何よりでした。ペリリュウ島に行かれる人は多いのですが、ペリリュウ島とアンガウル島を隔てる海峡は一変して波が荒く、小さな舟は危険なのです。よほど天氣が安定し、波が凪(なぎ)状態でなければ渡れません。昨日まで荒れていたというパラオの天候は我等が入国した日(22日)から安定した穏やかな日が続き、途中一度も雨に降られませんでした。全ての行事が終わった最終日の夜、ホテルの部屋に戻った時、突如スコールが降ったのです。
パラオはとても遠い島で、成田空港からの直行便が廃止され、グアム乗り換えとなり、成田を朝出発し夜10時頃にホテルに到着という、丸一日がかりでの行程になります。アンガウル島は凪状態で、これは珍しいことと、ガイドの人が驚いていました。アンガウル島では日本の守備隊1,200名が玉砕したのです。島民も艦砲射撃と空爆で6人が亡くなりました。島民は「この島は神の島だから守られているので大丈夫」と言って、島から離れようとしなかったのです。
確かに渡ってみてわかったことですが、奇岩、大木に満ち溢れていたのです。それは丁度沖縄宮古の自然を思わせるものでした。そういう奇岩、即ち日本で云う磐座(いわくら)を包み込むかのように巨木がその上に立っていました。そこにアンガウル神社が存在していたのです。そのようなご神氣が強いスポットがいたるところにあったのです。まことに神の島でした。
アンガウル島での鎮魂祭祀を終え、次に10,500人が玉砕したペリリュウ島に向かったのです。アンガウルでもペリリュウでも行く所、行く所で天の鳥船を斎行し、日本の歌を奉納させていただき、祝詞を奏上しました。深く熱い涙の祈りを捧げました。どれだけ英霊たちが喜んでおられたか。一同号泣のしっぱなしです。
そしてオレンジビーチで、日米双方の英霊たちを慰霊しました。アメリカの青年たちも多くが遠い南太平洋の島で亡くなったのです。オレンジビーチは大激戦の地で、海が血で赤く染まり、むしろアメリカ兵の戦死者が多かったのです。
ーいろいろな気づきがあった?
今回のパラオの旅で氣づいたことがいくつかありました。それは日本兵のほとんどが生きて帰れないと覚悟を決めていたことです。「死に場所はここだ」と。そしてもう一つ重大なことは、愛するもの(家族、恋人、ふるさと、国家)を守るための戦いは強いということです。愛の戦いは強い。ペリリュウ島の司令官中川州男(なかがわくにお)大佐はこう述べておられます。「人は憎しみでもっては戦えない。愛のために戦うのである」と。
何故我々はパラオに行くのか。そこに国防と祖国愛の原点を観るからなのです。今回の旅は奇蹟、奇瑞(きずい)の連続でした。そこに神の愛と英霊の熱き祖国愛のメッセージが込められていたのです。
ドラッカーがなぜ、日本に恋をしたのか..
先人たちの生き様に現れているような気がしました。
―10年スパンの人生?
わたしの人生は10年スパン。10年ごとに変わってきました。ただ軸は変わりません。宝塚歌劇団は本質的なことをおしえてくれました。ドラッカーに興味を抱いたのも同じ理由です。本物だと感じたからです。これまで10代は夢のために生きた。20代は宝塚歌劇団という世界で生きた。30代はその経験を生かして多くの企業に学んだことを伝えさせていただいた。40代は日本という国の理念を世界に伝えられるような人間になりたい。そのスタートだと思っています。21世紀の日本の世界的使命を果たすためにがんばりたいと考えています。




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