ドラッカー教授がGMの調査を行っている時期のキャデラック事業部長は、ニコラス・ドレイスタットでした。彼は30年以上キャデラック事業部にいました(その調査結果は1946年に『企業とは何か』として出版されます)。
南ドイツ出身のドレイスタットは、13歳のとき、メルセデスのレーシング・チームの最年少修理工としてアメリカにやってきました。彼は、1929年、大恐慌のとき、キャデラック事業部でアフターサービス部門の責任者をしていました。
大恐慌を乗り越えられたのは、シボレー事業部のみでビュイック、オールズモビル、本ティアックの各事業部は間接費節減のため統合しなければなりませんでした。大不振のキャデラック事業部にいたっては、解体必至とみられていました。
スローンやブラウンらをメンバーとする経営委員会は、事業清算に傾いていました。そこに現れたのが誰も見かけたことのないアフターサービス部門の責任者ドレイスタットでした。「一年半でキャデラック事業部を立て直す計画」を提案します。わずか10分間のプレゼンでした。
キャデラックは黒人に売らないという会社の方針に反して、アフターサービスを受けに来るお客は殆ど黒人でした。黒人富裕層はキャデラックに乗ることがステータスなのです。白人名義で購入してもらい、プレミアム付で黒人の富裕層が買っていたのです。ステータス・シンボルとしてマーケティングすれば必ず売れることを説いたのです。
さらに現在の手作り生産方式から大量生産方式に切替えることでコストを大幅に下げることを提案しました。「品質を決めるものは、設計、設備、検査、アフターサービスであって、非効率ではない」と迫りました。
この提案が受け入れられドレイスタットはキャデラック事業部門長に就任し、1934年には早くも年黒字転換を果たします。1937年には、同事業部はGMで最高の利益を稼ぐ部門に成長しました。
その後最大のシボレー事業部長に転じ、半年後、咽喉癌のため48歳の若さで逝去しました。GMは、社長と目されていた逸材を失ったのです。
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